2003/8/1

恵比寿ガーデンシネマにて「テープ」を観る。


突然ですが、私に限って言えば、

“初恋の人”“初体験の相手”が特別な思い出として残っているということはない。


10年も前のことにぐだぐだ拘ってる男2人に、付き合わされた女。

そりゃ、ラスト、ちょっと脅かしてやりたくもなるわよ(笑)

思い出も、想いも3人3様

ここに犯罪の匂いをプラスさせた描き方は割と面白かった。


イーサン・ホークは髪が短いのはいいけど、体(特にお腹まわり)がやばい。

ロバート・ショーン・レナードは綺麗でした。でも何かちょっと足りない感じ。

個人的には「チェルシー・ホテル」の時の彼の方が好き。

ユマ・サーマンは相変わらずの美しさ・・・。

「本当にあなたのことが好きだった」という、はにかんだ表情がよかった。


この3人の密室劇なので、実際の上映時間より、かなり長く感じられた。



2003/8/4

ある本を10年ぶりに読み返している。

私にとって、自分の幸せを求める決意を持つきっかけになった本の1つである。


その本のタイトルは「愛しすぎる女たち」

「愛しすぎる」という響きの聞こえはいいが、一言で言えば中毒のことだ。

アルコールや薬物などの依存症となんら変わりはない。




機能不全の家庭で育った人は、様々なストレスを受けているはずだ。

心の中がネガティヴな感情で渦巻いてたはずだ。

一方、そんな自分に嫌悪感・罪悪感を感じ、自分を好きになれなかったはずだ。

湧きあがる感情を、一つ一つ否定していたはずだ。

そして、なにより、心が「居心地がいい」と感じられる空間が無かったはずだ。


これじゃあ、感情は麻痺してしまう。

体が、心が、居心地の悪さに慣れ親しんでしまう。

自分の「幸せは何なのか?」なんて全くわからなくなってしまう。


そして、わざわざ問題を抱えていたり、

自分とフェアな関係を築くことのできない人(もしくは関係)を選んでしまう。


何故って、苦痛には慣れっこだから。慣れ親しみすぎているから。

逆に負の要因がないと、不安になるのだ。

それもそのはず。


穏やかな 暖かな 幸せな 感情に全く慣れていないのだから。




実は読み返していて、これを書いていて、胸が苦しいのだ。痛むのだ。

私は10代だった頃の、あの当時の感情を忘れているわけではないのだ。


しかし、これだけは言い切れる。


恋愛関係において、苦痛を苦悩を愛だと思い込み、それらを感じることができる、

あの家庭内の状況と同じ状況を、自らすすんで作り出し、

それによってしか安心を得られないという自虐的行為とはきっぱり手を切った。



2003/8/5

自己セラピー続行中(笑) 興味の無い方はご遠慮ください。


今思えば、私は結構、可哀相な子だったんだな(笑)

確かに、世の中にはもっと不幸な人はたくさんいるのだろう。

私は、まだ、マシだ・・・

そう思い込むことで、私は自分を慰めてきた。それしか方法を知らなかった。


父親の記憶。母親の記憶。

様々なことがあった中で、それぞれ1つずつ、強烈に残ってる記憶がある。

それに伴う私の感情。彼らへの想い。

私が心に傷を抱えているという事実は明らかであった。

そして、この傷は一生かけても、消えることはないのだ。


結婚後、私はやっと、どうしようもない傷を抱えていることに気付き、途方に暮れた。

実家を離れることによって、明確になったのだろう。


夫のS氏はというと・・・。穏やかで、優しく、誠実で、真面目ではある。

産まれた時から祖父母と生活し、両親とは一つ屋根の下で暮らした経験が無い。

祖父母に感謝する一方で、両親の愛情を欲していた。

彼もまた、寂しい思いを抱えている人だった。

それは一時期(私と付き合う前だが)、買い物依存症という形で表れていた。



・・・なんだよ。やっぱり問題あんじゃん(笑)

まぁ、そうじゃなきゃ、

私達が今の関係に至るまで、こんなに時間はかからんわな(笑)



2003/8/6

それなりに幸せに付き合ってると思ってて、結婚したはいいが・・・。


私はいつもイライラしてて、たまに物を投げたり、(軽度だが)暴力行為に出ていた。

夫のS氏は、そんな私の神経を逆撫でしないように、

私の言動に同調するか、もしくは、何も言わなかった。


でも、私は「彼の本心を、意見を、聞きたい」と思っていた。 

「何で言ってくれないの?」と問い詰めたところで、言えるわけないじゃんねぇ?

すごく威圧的な態度だったと思うし、気に食わないと、また怒り出すし。

精神的にも不安定で、余裕なんて、ほんの少しも無かった。


彼のかつての買い物依存症でできた借金。

「はやく返そうよ」と言う私に、「まだ平気だよ」と言う彼。

彼は、現実を現状を受け止めることを拒否していた。


でも、これは、お互いそうだったな。

自分というもの。相手というもの。今の生活。

私達は、これらを見つめようとしなかった。だから、当然、何もわかっていなかった。

問題点がわからなかったら、改善策がわかるわけがない。

さらには何を求めているのかも全くわからなかった。

どうにもこうにも・・・。私達の関係は、文字通り、袋小路だった。



部屋はぐちゃぐちゃ。 2人の体調も最悪。

昔から熱を出さない私が、頻繁に熱を出し、鼻炎もとても酷く、

たいしたことはなかったが、交通事故にもあったし、ものもらいも出来た。

夫のS氏の熱や風邪の回数も、異様に多かった。

心が病んでいるサインだったのね。本当に、体ってすごく正直。



2003/8/7

自分のイライラやモヤモヤの原因が何かはわからないが、

何かがおかしい・・・とは感じていた。


転機が訪れたのは、以前にも書いた、私の祖母の死(2003/6/14参照)以降。

両親の離婚後はほとんど、祖父母と私と弟2人との生活だったから、

私にはかけがえのない人だった。精神の支えだった。ある意味、今でもそうだ。


人はいつか死ぬ。だったら、幸せに生きた方がいいに決まっている。


・・・自分は幸せなのか?


こう考える毎日が続き、そうこうしているうちに一人の男性に出逢った。

彼は、私が何かを問いかけると、彼の正直な意見を返してくれた。

すごく楽しかったし、嬉しかった。夫のS氏に求めても返ってこない反応だった。

私の心の中で、彼に対する想いがどんどん大きくなっていった。


ある日、「もう一緒に暮らせない」と思った私は、家を出る決心をした。

夫のS氏は、私の微妙な変化に気付いてはいたものの、

「何がなんだかわからない」という様子だった。



食事や睡眠。人間が生きていく上で必要不可欠な営み。

ただ単に、これらを繰り返していくだけなら、相手が誰であろうと出来るのだ。


だが、私が求めているのはそういう生活ではない。それを結婚とは呼びたくない。


もうこれ以上2人の生活を続けていても、無意味だと思った。



2003/8/8

実家に帰る、もしくは、母親の元に行く気は、さらさら無かった。


よって、私の人生、初の一人暮らし

と格好つけてみるものの、部屋探しは不動産会社に勤めている母に頼ったし、

別居は同意(半ば無理やり)だったから、引越しも、夫のS氏の助けを借りた。


好みのカーテンや、シーツ。まん丸のライトも買ったし、ベンジャミンも買った。

ビデオやラックも。無印良品のトタンボックスをテーブル代わりにしたっけ(笑)

思い返せば、結婚した時、夫のS氏の一人暮らしのもとに、

私が入った状態だったから、2人でこういう買い物をしたことが無かった。


6帖の1K+ロフトで、決して広くは無かったが、それなりに綺麗に部屋を整えた。


これで、わかったのは「居住空間ってとっても大事なんだな」ということ。

体と心が落ち着く場所。くつろげるスペース。

「いつか自分の空間(家)が欲しいな・・・」と考えるようになっていた。

(同時に、自宅で「まつげパーマ」とかいいよな・・・とも考えるように)


夫のS氏も、私の部屋を訪れた時、その状態と心境の変化にかなり驚いていた。



肝心な、私達2人の状態は・・・。

頻繁に連絡をとってはいたものの、とにかく話が噛みあわなかった。

私が、昨日書いた彼のことを好きでしょうがなかったっていうのもあるんだけどね(笑)



体調面にも変化が。あれだけ酷かった鼻炎が嘘みたいにすっかりおさまった。



2003/8/9

私がいきなり、こんな日記を書き始めたので、驚かれている方も多いと思いますが、

これは、もう既に、4、5年前の話です。

今、非常にヘビーな状態であるとか、そういうことではありません。

ささやかですが、地味ですが、幸せに暮らしております。

なので、どうぞ、安心して読んでくださいませ(笑)


何年も夫婦をやっていれば、問題の1つや2つ出てきてもおかしくないと思います。

それこそ、別居、離婚直前までいった経験がある方、

離婚を経験された方もいらっしゃるでしょう。

私はこれら自体が、悪いことだとも恥ずべきことだとも思いません。


むしろ、昔の「イヤな奴だった自分」を露呈する方が恥ずかしい(汗

夫のS氏に対して、「本当に申し訳なかった!」とも思いますし(笑)

「申し訳ない」と言えば、家族や友人にも。たくさんの心配をかけました。


色々な人たちを巻き込みながら、見守られながら、

やっとの思いで手に入れた私達なりの夫婦の形

その過程を綴ってみたいと思いました。


私が、夫のS氏が、何を感じ、何を考え、何を求めたのか。

それは、とても個人的なことかもしれないし、

もしかしたら、普遍的なこともあるのかもしれない・・・と。



結婚・・・97年2月。

祖母の死・・・98年7月。

別居開始・・・98年11月。



母に、「家を出たい」と言ったら、「そう」とだけ答えて、すぐ部屋を探してくれた。

どうしようもない状態のままで留まっていても、精神的に負担になるだけ

それは、彼女の過去の経験から、出た答えだった。

別居は父に反対されていたし、その後も、ずっとずっと我慢し続け、

ついに家を出る時は、もう心が後戻りできない状態だった。


弟達にも会って、事情を説明した。


父には事後報告。会社まで電話してきた私の異変に気付かないわけが無い。

「実は、別居してるの」 「アハハ。そうか」

決してふざけているのではない。突然の話に笑うしかなかったのだろう。

その日、仕事帰りに父と会い、色んな話をした。私達の状況。祖父母のこと。

父と母の出逢った時の話や、離婚に至るまでの話。


この時に聞いた生前の祖母の言葉が、後に、私の新たな決意の後押しとなる。 




夫の実家のS家は、問題の核心には触れない人たちの集まり。

夫の家族は、私達のことを心配してはいたものの、

「本人達の問題だから」と全く関与してこなかった。 


私の実家のT家は、問題の核心を突く人たちの集まり。

父と継母も、違う日には上の弟も、夫のS氏と会って話をした。

夫は「自分を家族として気にかけてくれたのが嬉しい」と、

かなり厳しいことを言われたであろうにも関わらず、半分喜んでいた。



この時から、徐々に明らかになってきた両家の違い。

それらの背景などを考察することは、各々の家庭で育ってきた、

2人の性格的な部分を省みるのに、非常に有効に働いたのは言うまでもない。



2003/8/10

私達の状態は、本当に最悪だった。

夫のS氏は、私に嫌われたくないがために、何でも私に合わせようとしていた。

私の好きな本、私の好きな映画、私の好きな音楽。

今まで、彼がさほど興味を示さなかったものなのに。

とにかく、何かしらの共通項を見つけたいと必死だったのはわかる。でも・・・


違う!違う!違う!私が求めているのは、そういうことじゃない!!


そうされれば、そうされるほど、私の心は当時好きだった彼に傾いていった。



年が明けた、1999年1月。私の祖父の死。


祖母の時と同様、通夜や告別式など、全て実家で行われた。

家族は悲しんでなんかいられないのだ。余りにも、やるべきことが多すぎて。


こういう時こそ、妻の支えになるべき、夫のS氏。さて、彼はどうだったか?

彼が私の祖父母のことを好きだったのはわかるけど、

私のことはそっちのけで、勝手に悲しみに沈んでいた。

しかも、この、くそ忙しい最中の私に、迷惑までかけたのだ!!

さらには、告別式に遅刻。なんたる無礼。



夫のS氏のやることなすこと、全て裏目に出ていた。

それもそのはず。

彼は、私の求めていることをわかろうとせず、

彼の勝手な思い込みで行動していたのだから。

しかし、私にも、この部分をどう説明したらいいのかわからなかった。


完全に、2人の間のバランスがおかしくなっていた。




私が家に着いた時は既に、棺の中には、紋付袴を着せられた祖父がいた。


「おじいちゃん良かったね。もう一度、おばあちゃんと結婚式が出来るね」

「もう、おばあちゃんと離れ離れになることはないんだね」


何も語ることはできないはずの祖父母。

だが、その場にいた、家族や親族の皆に、こんな発言をさせるのだ!!


これが、真の愛というものなのか。


父と母の関係が目の前で壊れていくのを見た一方で、

祖父母の、夫婦としての、こんなにもいいお手本を見せてもらっていたのだ。

私はそのことに深く感謝し、私も、いつの日か必ず手に入れたいと思った。



2003/8/12

昨日の午前10時過ぎに、お腹をすかせた(笑)某M&M母娘がやって来た。

某M嬢にはいつもお世話になっておりますが、愛娘であるMちゃんとは初対面。

早々に食事をし、昼寝をして、池袋のサンシャインシティへと向かった。


「あっ!」というMちゃんの声の方を見ると、

それは、下の階から、私達のいる階まで届きそうな、とっても高い噴水だった。


私も昔、父と母と弟2人の家族5人で、噴水を見た記憶がある。

あの頃は、何の不安も無かった。ただただ、楽しかった。嬉しかった。

今、改めて考えると、あの頃の私がそう思えたのは、

私が両親に愛され、見守られて育ったという、何よりの証拠なのだ。



Mちゃんは、噴水の形が変わるたび、ライトの色が変わるたびに、感動している。


「あっ、色が変わった!今度は何色になった?」

「赤とぉ〜、緑とぉ〜・・・」


「うわぁ〜!!高い!!すごいすごい!!」


会話の内容なんて、どうでも良かった。

私はただ、Mちゃんと一緒に、おしゃべりしながら噴水を見ていたかった。

幼い日の私が家族と一緒に噴水を見ていた時のように。



昨日一日、Mちゃんと一緒にいて、色んなことに気付かされた。

本当に、子供ってすごい

Mちゃん、ありがとね。りんちゃんは、今年の夏の楽しい思い出ができたよ。



2003/8/13

ワイン好きの夫のS氏は、「アメリカのワイナリーで働きたい」と言い出していた。

「それは単なる逃げなのか?それとも、本気で変化を望んでいるのか?」

後に彼は「どっちもだな。リセットしたかった」と言っていた。


何事が起きても、割と冷静さを失わない私。「男らしい」と言われる所以である。

夫と冷静に話をしようとすればするほど、彼に「冷たい」と言われた。

彼の言動に対して、どうにも説明のしようがなく、

「それは違う!」と責め続けることしかできない自分に、いい加減嫌気がさしていた。



2人とも、とても、とても、とても疲れていた。

もう、何を言っても無理だと思った。何を言っても無駄だと思った。

「離婚しよう」ということになった。



何についてもそうなのだが、頭より先に、私の体が何かを感じる。

その時には、その何かというのが何なのか、全くわからないのが常なのだが。


この時もそうだ。

離婚すると決めたとたん、急に体が軽くなった気がした。

その一方で「何か違う。何かおかしい」と感じていた。


父親に電話で報告したら、

「何でお前達はそんな大事なことを、何の相談もせずに決めるんだ!!」

と怒鳴られた。私が感じていた何かがなんとなくわかった。



そして、夫のS氏に電話した。

「私達はこの苦しい状態から、逃げたいだけなんじゃない?

もっと時間をかけてじっくり考えるべきなんじゃない?」と。


夫も「辛くて逃げ出したい気持ちだった」ということを素直に認め、

私達はもう一度考え直してみることにした。



2003/8/14


私は、夫のS氏に、散々「気の使い方が違う」と言っていた。

例えばこうだ。

外で会って、話さなければならなかったから、どこかお店を決めなければいけない。

ある日、私は彼に「決めて」と言った。

そして、彼が決めた喫茶店で出てきたものが、あまり美味しくなかったのだ。

彼は私に申し訳無さそうに「ごめんね」と言った。


・・・・・・・・・だから、それが違うんだってば。


彼に「決めて」と頼んだのは、私。

決定権は彼にあるんだし、委託した私には、とやかく言う権利も無いのだ。

本来ならば、「あまり美味しくなかったね。失敗しちゃったな」って笑ってすむこと

たったそれだけのことなのに、この時の彼にはそれが出来なかった。


私は、あなたの妻なんだし、そういう変な気の使い方はしないでと言っていた。



彼は人からいい人と言われることを、この時期とても嫌がっていた。

どうでもいい人という感じがする」と。

自分でそう思っていたら、人の目にもそう映るのは当然だ。



彼は、とうとう、こう言った。

「そうやって、人を責めてばかりいるけど、一体どうすればいいって言うんだよ!」

この時、はじめて感情を露わにした夫のS氏。

私は、まさに、彼のこういう言葉を聞きたかったのだ。




「意見なんて、人それぞれだし、感じることだって、違って当たり前。

あなたの発言によって『私に嫌われるかも』とか勝手に思うのって、

私に失礼じゃない?見くびってるっていうことにならない?

私は、そんなことで嫌いになるような、心の狭い女じゃないつもり。

そうやって、自分で勝手に決め付けないで、言ってよ

基本的には賛成だと思うし、もし、反対だったら、ちゃんと理由を言うから」



「人からいい人に見られることは、いいことじゃない?

それが、あなたの生まれ持った長所だし、事実だとも思う。

これから、他の部分も、もっと伸ばしていけばいいことじゃないの?」



彼はこれらを聞いて、肩の力が抜けたようだった。


そして、こう言った私自身も、

決して、彼という人間を嫌いなわけではないのだということに気付いた。


この日を境に、2人とも、精神的にかなり楽になった。



2003/8/15


夫のS氏は、アメリカ行きのことを少しずつ調べていた。

実際、現地で調べるというのも兼ねて、1週間アメリカに旅に出た。

彼はアメリカ。私は日本。何の連絡も取れない状態で、各々、色々なことを考えた。


帰ってきた彼と、外で会った。信じられないことに、

今まで、外食しても、ほとんど話しをしなかった彼が、ずっと話していた。

気付いたら、その店で3時間近くも話をしていた。


私は、ただ単純に、話をしている彼を見て、嬉しいと思った。



そして、彼が言った。

「環境を変えなきゃ、自分が変われないというわけじゃないんだな。

どこにいたって、自分の意識が変われば、変われると思う」


まさに、その通り。 

同じものを見たとしても、ちょっとした視点の変化で、ものすごく違って見えるものだ。 


彼は少しずつ変わってきていた。きっと、私も変わってきていたのだろう。


無理をしなくなった。

自分の短所を認めて、素直に受け入れられるようになってきた。

自分を受け入れることができると、自然と、相手を受け入れることができる。

もちろん、長所もあれば、短所もある、そのままの相手を、だ。



私達は、もう一度、やり直せるかもしれない


やっと、希望を見出せた。

やっと、お互い、真正面から向き合う状態になれたのだ。




ここまできたら、後は、楽だった。


「私達は、どうして、こういうことになってしまったのか?」

こう話し合ううちに、自分達の性格についても触れることとなり、

もっと掘り下げていくと、各々の家族の性格や、育った家庭環境に触れることに。


「結婚は当人同士だけの問題ではない」とはよく言われる言葉だ。

この場合、少し意味合いは違うものになるが、やはり私達だけの問題ではない。

お互いの家庭内で育まれてきたものが、私達の中に根付いているのだから



そして、私達の別居に、家族が心を痛めていないわけはない。

父親は、継母に、「全部、俺のせいだ・・・」と言っていたらしい。


全てが、私の両親の離婚のせいだとは思わない。

が、しかし、そこから受けた、心の傷が、要因の一つになっていることは確かだ。

私は、この件を通して、そのことを、父と母に伝えたかったのかもしれない。


非常に子供じみてる。そんなことは充分承知だ。


私は、自分が子供でいられるべき時期の、一時期を、

子供として、子供らしく、過ごすことができなかった。

自分の心に浮かんでくる感情や疑問を押し殺し、親の理解者になろうと務めた。


はやく大人になりたかった。そうすれば苦しまずに済むと思っていた。

だが、苦しさから逃れるためだけに、都合よく大人になんてなれるわけがないのだ。



2003/8/16


私達が「やり直そう」と決めた矢先の3月。今度は夫のS氏の祖父の他界。


この時の大変さは・・・、本当に・・・、今思い返してみても絶句。

でも、どうにかこうにか、乗り切ったことで、

別居騒動など起こしていたにも関わらず、家族や、親戚に認められることになった。

この時以降、私はS家で「姉ちゃん」と呼ばれるようになった。(夫は「兄ちゃん」)


夫のS氏も、私の部屋で生活することになった。

私が一人暮らしをして、はじめて感じた、「居心地のいい空間」の大切さ。

私達は、2人がやり直す際のけじめという意味も含めて、

「自分達の居住空間を持ちたい」と考えはじめていた。


しかし、その前に、重要なことが。夫のS氏のかつての借金である。

私の給料の数ヶ月分と、夫のボーナスが、右から左へと消えた。

無事完済し、気分的にもすっきりした、ある日曜日。


「駄目もとで、駅前の新築マンションを、見に行ってみようか?」

ほぼ居住者もいた状態で、私達に選択の余地は無かった。でも通された部屋は、

南向きで日当たりがいい。ベランダが広い。駅前である。買い物にも不自由しない。

好条件だった。私達の気持ちは固まりかけていた。


私の実家のT家のお墓は、祖父母や父の故郷の北海道にある。

次の週、祖母の、そして、祖父の繰上げの一周忌のために、北海道へ行った。

そこで、夫のS氏はT家のお墓を前に、

私達がきちんとやり直すこと、家を買うこと、を報告したそうだ。


東京に戻った翌日に仮契約。すごいスピード(笑)

おじいちゃんと、おばあちゃんに後押しされてるような気がした。


後押しと言えば。生前の祖母の言葉。

私達が結婚する際、

父は夫のS氏のことを「男として、まだまだだ・・・」と言っていたらしい。

それを聞いて、祖母は

結婚したら、2人でやっていくものだから」と言ったそうだ。

祖母も、私が子供だったり、夫のS氏が半人前だなんて、百も承知だったのだろう。

半分心配しながらも、私達2人のことを、信頼してくれていたのだ。

私は、大好きだった祖母の信頼を裏切ることはしたくなかった。

そして、夫のことを、「優しくて、誠実そうだね」と言っていた。

あの祖母が、そう評価してくれた人なんだ。間違いない。と思った。




母親に報告したら、

「私達はそうできなかったから、あなたたちが戻ってくれて嬉しい」と言った。

さらに、彼女は昔を振り返り、「今だったら違う道を選べたかもしれない」と。

涙がこぼれた。


離婚には、ある種の後悔がつきものである

私達もたまに話す。「もし、あの時、離婚していたら、後悔しただろうね」と。

父と母の言葉などを聞いていても、何かしら、残っているものはあると思う。

少なくとも、父と母は、心底、嫌いになって、憎しみあって、別れた訳ではないのだ。 

そして、離婚の大半は、このようなケースだと思われる。



友人に報告したら、

「別居から、いきなり、マンション買うって、何であんたはそう極端なの?」

と言われた。安堵と共に、驚きも相当なものだったらしい。

ごめんね。これが私の性格なの(笑)



2003/8/17


結局、私が欲しかったのは「何でも言い合える関係」でした。

「自分を求めてくれている」人に対して、素直に率直に意見を述べること。

これが相手に対する、礼儀だと思うし、敬意を払うことでもあると思っています。


その後、夫のS氏は、

「心に浮かんだことは、できるだけ口に出すようにしてる。リハビリ」

と言っていました。リハビリが必要なほど「重症だった」と。



一緒に生活していると、「相手のことをわかっている」と思い込んでしまう。

自分のことも全部はわからないのに、相手を一から十まで知ることなんて不可能。

私は、「夫のことをわかっている」と思わないようにしています。

だからこそ、言葉が、会話が、必要になってくる。疑問に思ったら、いちいち聞く。

そうすると、私の想像と、全く違った答えが返ってきたりもするから、面白い。



今は、相手の様子で、変化に気付くこともできるようになりました。

夫のS氏が、一言言う。

「何か聞いて欲しいのかな?」と感じたら、さりげなく、聞き出してあげる。

逆もまた然りで。

これが、忘れてしまいがちな、思いやりの心。気遣う心。なのかな?と。



今回のこの連載も、夫のS氏に確認しながら書き進めてきました。

その中で、彼が、「やっぱり昔は、楽しくなかったな」と。


今は、「美味しいね」と言いながら食事が出来たり、一緒に笑いながらTVを観たり。

私が幸せだと感じるのは、こんな時です。非常に地味です。

日常生活の中にある、ささやかな幸せ(楽しかったり、嬉しかったり)を、

感じ取ることができる、心。

肉体面での健康も、もちろんのこと、精神面でも健康でいられること。



私は、自分の幸せは自分でしか掴み取ることができないと思っています。

それは、相手に力が無いから、とかそういうことではなく、

自分で幸せになろうと思う気持ち、そして先述の、幸せを感じ取る心を持つこと。

これらは、決して他人がもたらしてくれるものではないから。



そして、いつかは、私も、子供を持ち、親になりたいと思います。

これを書いていて、すごく感じたことは、

子供にとって、一番最初に関わる、他者が親であり、その親との関係が、

その後の、あらゆる人間関係に深く関わってくるものになるということ。

子供は親から、「愛」を学び、「信頼」を学び、「尊敬」を学ぶ。

さらに様々なことを学び、それをもってして、自ら、新たな人間関係を築いていく。


お互いの存在を認め合い、いたらないところは、共に成長しようと努力すること。

そのためには、本音でぶつかり合うこと。

そして、なにより、共に幸せを感じながら生活していくこと。



人生何十年かはわかりませんが、同じ生きていくなら、できるだけ笑顔でいたい。

笑顔は、伝染し、幸せな感情をもたらしてくれるから




これを書き進めながら、色々なことを思い出し、何度か涙しました。

それは、決して嫌な涙ではなく、

むしろ、少しずつ優しい気持ちを持てるようになってきたような気がします。


私の求めている幸せは、とっても単純なものでした(笑)


これを読んでくださった皆さんも、

ご自身の幸せ、そして、大切な人の幸せと共に、人生を歩まれることを願って☆


この連載もこれにて終了です。お付き合いいただき、どうもありがとうございました。 



2003/8/26


まだ読み終えてなかった『愛しすぎる女たち』を読んでいて、

昔の家庭内での色んなことを思い出す。 で。それは、いいとして。


改めて気付かされることは。


心が麻痺しちゃってる部分があるということ。

と言うより、自分に自分で

痛みを痛みとして感じさせないように、コントロールして、麻痺させちゃってる

ようです。


人の話を見聞きする時、それに対する痛みは感じられる。


でも、いざ、自分のこととなると、「たいしたことない」と思い込む

自分の心が、痛くないように、辛くないように。


自分の、こういうやっかいな現象に気付かされる。


幸せもそうだけど、心の痛みだって、誰かと、何かと、比べるものではない

程度の差こそあれ、自分が痛いと感じたら、やはり、それは立派な傷だ。

このことを、きちんと受け止めたい。



また、時間ができたら、昔のことも書いてみよう。

ここに書くかどうかは、まだ、わかりませんが(笑)

前回までの私達夫婦のことを書くにあたって、改めて、冷静に、客観的に見れたし、

それによって、気付かされたこともあったりと、とても興味深かったから。



2003/8/31


「アタック・ナンバー・ハーフ」を観る。これは実話だそうで。


バレーボールチームの監督、選手とも、1名以外は、皆ゲイ。

ゲイと一口に言っても、色んなタイプがいるのですが。


彼女達にとっては、お化粧ってすっごく大事なんだなぁ〜。

普段、すっぴんでそこらを歩いている私は見習わないととは思うけど、

いかんせん面倒くさくて・・・。


タイという国は、セクシャルマイノリティーに対する偏見が少ないと

勝手に思っていたのですが、やはり、そうでもないんですね。

そして、男尊女卑の思想も、一部では根強く残っている。

これは、時代や、国や、年齢関係なく、残ってるものなんですねぇ・・・。




パトリス・ルコント監督、ジャン・ロシュフォール主演の「タンデム」を観る。


〜 男は哀しい生き物である 〜

この監督の作品、ほとんど全てに通ずるものだと思う。

で。圧倒的に男に優しい。この監督は(笑)


ラジオのクイズ番組公開放送のために、毎日町から町へと旅して回る男2人。

ギャンブル好きで見栄っ張りの司会者と、彼を支えるちょっと気の弱いスタッフ。


司会者の見栄も、スタッフの彼に対する気の使い方も、わからなくはないですよ。

でも、俗に言われるところの「男の美学」を解さない(というか好みじゃない)私は

こういうところから解放されてる男が好き(笑)


ダンディズム、物哀しさ、男の友情・・・。

男性が観た方がグッとくるのかもしれません。


いつもながら、ジャンは上手い。どんな役もこなせる素晴らしい俳優です。



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