2004/2/12

そろそろ、クリスマス・イヴに起きた出来事を書いてみたいと思う。



2003年12月半ば頃からの、とにかくすごい騒ぎ。

義母の様子が日に日におかしくなっていく。

義祖母は2回も転倒し、足及び腰を骨折。

そんな中、父も狭心症で手術をすると言い出す始末。


こういう時にこそ、目の前で起こっている出来事だけではなく、

各々の家族の対応。家族としてどれだけ機能しているか。様々な過去。

こういうものが、一つ一つ浮き彫りになってくる。

そして、両家を同時に見ていた立場で、お互いを照らし合わせて見ていたからこそ、

色々な立場の色々な想いや、色々なものを感じてしまうことになったのだろう。



昔から勘が良かったり、話の流れで先がなんとな〜く見えたり、

そういうことはあったものの、まさかここまで凄い状態になるとは思わなかった。



その頃、私は、とにかく色んなものを感じ、脳の動きが止まらなかった。

しなければならないこともあるし、あっちも、こっちもと、心配ばかりしていた。

そうなると、ほとんど眠れず、食欲もなくなる。咳ものどの痛みも止まらなかった。

にも関わらず、私自身は「疲れてはいるけど、まだ大丈夫だ」と思っていた。


そういう状態で迎えた、クリスマス・イヴ。私は夫のS氏に手紙を書いた。

今、この家にいると、どうしても両家のことを考えてしまい、頭も体も休まらない。

だから、全く別の場所で休みたい。 しかも、一人で。(これが、そもそもの間違い)


夫のS氏が私の力になれないわけではない。

でも、傍にいると、S家の家族のことを思い出さずにはいられない。

夫も私がすごい状態になっていくのを見ていたから、心配しながらも、

「ホテルに着いたら連絡を」ということで了解してくれた。



2004/2/13

昨年のクリスマス・イヴ。私は神楽坂にいた。知り合いのW氏のBARを訪ねて。


W氏は、私と少し会話をした後、何かを感じたのか、

「今日は、朝まで居てもいいよ」と言ってくれた。


このW氏。私が別居していた頃に知り合った。ということは、もう5年前。

結構仲良くなり、個人的に飲んだこともあった。

連絡をとらなくなってから、4年以上は過ぎていたと思う。

昔から「自分の店を持ちたい」と言っていた彼。2年前にその夢が実現していて、

数ヶ月前、彼が昔務めていたお店で、今の彼のお店の場所を教えてもらっていた。



閉店後、二人きりになってから、色々な話をした。

昔のこと、今までのこと、そして、今現在起きていること。

途中で彼は目頭を押さえていた。 あれ?何の話してたときだろう?(笑)



5年前に私がとても好きだった人の話をしていた時、突然、私は、倒れた。


ガクンっと、自分がどこか違う次元に入ってしまったかのような感覚。

自分で、目の色が変わってるだろうことが想像できる。

そして、声のトーンがすごく低い。(抑揚をつけて話すことができない)

不安で不安で仕方が無い。体の芯が冷えきっているようで寒くて震える。

心がガラガラと音を立てて、崩れていきそうな感じがする。



当然、W氏は、私の突然の異変に困惑していた。


私はW氏に「お願いだから抱きしめていて」と懇願した。

椅子を並べて、そこに横たわり、私はW氏に力いっぱいしがみついた。

人の体温。人の鼓動。 これらは、なんて、暖かいものなのだろう。

人のぬくもりが、こんなにも心に効くものとは。

心が崩れていきそうな感覚が、少しずつおさまってきた。



そうしたら、急に、お腹がすいてきて、持参していたおにぎりに噛り付く。

途中、空腹を我慢しながら、紙に自分の状態、心情、その他諸々を書き出した。

20分くらい書き続けていただろうか?

やっと、心が落ち着いてきた。

ここで気付いたのだが、書くことは私にとって、かなりの精神安定となるらしい。



「お腹すいた」「のど渇いた」「おトイレ行きたい」など、

子供のように自分の欲求を口にする私にW氏は笑いながらも付き合ってくれた。


記憶が定かではないのだが、いつだったか、

これらの途中で、夫のS氏に電話を入れていたので、店まで迎えに来る。

電話では、とんでもなくショックを受けたらしいが、

実際の私の状態を見て、少し安心したらしい。

W氏に「お久しぶりです」と挨拶し、「広さも雰囲気もいい(お店)ですね」と言った。

私も「迷惑かけちゃってごめんね」と謝り、「また来るから」と店を出た。


しかし、この時はまだ、おどおどした子供のような私であった。



2004/2/14

今、思い返してみると、

義母の状態を知るために、ああいう状態に陥ったのではないか?

そんな気がしてならない。



大体、何故、5年前に好きだった彼の話をしている時に倒れるのか。


彼は、かつて、W氏と一緒に働いていた人で、

後に、自律神経失調症になり、入院したとの噂を聞いた。

とても真面目で、全ての責任を自分で負ってしまうような人だった。


友達に彼の話をすると、彼女はツインソウルという言葉を使った。

全てを語らなくても、相手の気持ちがわかってしまう。

彼は、私にとって、そういう相手だった。

だからこそ、すごく惹かれたし、

彼の辛さがわかるから、どうにか力を抜いて楽になって欲しかった。

私は、彼の力になりたかった。

でも、彼は人(特に女性)と距離を置くことで、自分と相手を守ろうとしていた。



後日、家で手紙などの整理をしていた時、

彼がお店を辞める時に、お客さんに宛てた手紙が出てきた。

すっかり忘れていたのだが、その日はちょうど5年前のクリスマス・イヴ

そして、夫のS氏とその話をしていたら、

力が抜けてきて、床にペタっと座りこみ、そのまま、後ろへパタンと。

なんだか、当たり前のように倒れてました(笑) (←笑い事じゃないし)



私も、義母も、さらには彼も、

自分を一番優先しているような、大事にしているような人間に見えつつ、

どうも、後回しみたいで。他人のことを考え過ぎるきらいがある。


私はW氏にしがみつきながら、こう謝っている。

「Wさん、迷惑かけてごめんね。だけど、今、夫は義母のことで大変なの。

これ以上、負担をかけられないの。本当に、ごめんね・・・」と。


本当に「頼りたい」「守ってもらいたい」と思っている人に対して、

大切な人だと思うからこそ、「迷惑をかけてはいけない」と考える。

そうして、自分をどんどん追い込んで、あげく、壊れてしまう。


私は、心と体のバランスを失ってみて、

はじめて、と言うか、やっと、自分のそういう習性に気付いた。



〜 これは改めなければならない 〜



確かに、父のことも、義母のことも、義祖母のことも心配。

だけど、私自身が精神も体も健康でなければ、誰の力になることもできない。

だから、私は私自身を優先させる。

そのために、力になって欲しい。今は私を最優先させて欲しい。

そう、夫のS氏に訴えた。


私は、今まで、色々なものを我慢し続け、自分の中で処理しようとしてきた。

その私が、多分、生まれてはじめて、自分を優先させるためのわがままを言った。

父に、母に、そして、夫に、ずっと言いたくても言えなかったこと。



夫のS氏は「自分を頼ってくれて嬉しい」と言った。

「本当は、ずっと前から、そうして欲しかった」と。



2004/2/16

とにかく、色んなことが不安で不安で、おどおど、ビクビクしていた私。

しかし、妙に冷静な面も。

最初、「私も病院に行って、薬飲まなきゃいけないかな〜」と思った。

「ちょっと待てよ。義母が処方されているのは、睡眠導入剤と精神安定剤。

それなら、眠い時に眠ればいいのだな」

自分の体の欲求に忠実に進めば、元に戻れる そう確信した。


25日のクリスマスの朝、夫のS氏に、W氏の店まで迎えに来てもらい、

向かった先は、新宿のホテル。

と言うのも、私が家に帰る自信が無かったから。

いつも生活している空間に戻れば、またT家やS家のことを考え続けてしまう。

それでは体が休まらないと思ったから。

ホテルに着いた後、夫は仕事に向かった。

一人で居るのは不安だったが、そのうち、何日か振りにやっとぐっすり眠った。


目覚めた私は、シャワーを浴び、

その後、心配事や、しなければならないことをメモ帳に書き出した。

この時も、かなり長い時間書いていた。少し落ち着く。


ホテルは、休憩で入ったので、宿泊にしてもらわなければならない。

この電話をフロントにかけるだけでも、ビクビク。

宿泊代を、フロントまで払いに行く。お財布からお金を出す手が震える。

一つ、するべきことをやってのけた。・・・達成感。


次の問題は、ホテルのキー。当然のことながら、自宅の鍵とは全く違う。

オートロックなのにも戸惑うし、私は部屋の鍵を開けることが出来なかった。

どちらの方向に回し、どちらの方向に戻すのか?

そんなことで、混乱してくるのである。泣きたくなってくるのである。


そして、出した結論。出来ないことは無理にせず、諦めることにした。

この時は、夫のS氏がもうすぐホテルに戻ってくる時間だったから、

ソファーに座って、お茶を飲みながら待つことにした。


飲み物を買いに行く時も、「ドアをノックしたら開けてね」と夫に頼んでおいた。

ここも、結構重要なポイントで、

【頼んだことを、きちんとやってくれる】これが夫への信頼へと繋がっていった。



何かにつけて、不安になってしまう。 義母と全く同じ状態。

ほんの些細なことも、一つ一つ、確認しながら、確かめながら、生きていた。

そして、少しずつ、自分でも自信を取り戻していった。



2004/2/19

翌日の26日。夫のS氏は仕事のため、先にホテルを出る。

私は、ゆっくり支度をし、忘れ物がないか確認してから、チェックアウト。


やはり、まだ少し不安なところはあるけれども、

深呼吸をして、背筋をのばし、ゆっくり駅まで歩く。

自分の住んでいる駅で降りる。 

家の玄関を開け、中に入る。

帰って来れた。 体は拒絶していない。 一安心。



その後、私は、

腕や首を回しながら、手を揉みながら、深呼吸しながら、(体が勝手に動く)

家の中をウロウロしていた。

そうしながら、家の中を見渡すと、色々感じるのである。

家の中の【気】を遮っているものが、見えてくるのである。

「こういうものがあることがイヤだ」

「この部分の汚れが気になる」

「これらをきちんと整理したい」

自分が気になるものを目の前にすると、ゴホゴホと咳が酷くなる。


まだ体力がない私は、ふらふらしながらも、出来る範囲で掃除や整理をはじめ、

夫のS氏が帰宅した後、協力してもらうよう話した。



この日は、父の検査入院の日。 

継母と、下の弟が付き添っている。


私の体は父の体に付き合っていたようで、点滴開始時刻頃から、ずっとだるかった。

家の中をウロウロしているのも、私じゃないみたいな感覚。

父の口は曲がっているのだが、こういう時は、私の口も曲がってくる。

動作も男性っぽくなる。語尾のイントネーションが父のと似る。

3時か、4時頃、ふっと体が軽くなる。


夜、弟から電話が入る。

「結果によっては、明日、違う病院に移り、年内に手術になるかもしれない」

弟はここまで深刻だと思っていなかったようで、少し動揺していたようだった。



父からはじめて「狭心症」と聞かされた18日に、すぐにネットで調べた。

投薬治療、割と簡単目の手術、バイパス手術、の3種類。

バイパスのところを読むと、死亡率5%という文字。

「バイパスであるだろう。死の可能性もあるだろう。そのくらい酷い状態なのだろう」

と、その時から感じてはいたのだが、

弟からの電話で、「バイパス、手術は29日か30日」と確信する。



それまでに、家の中を片付け、掃除して、【気】の流れをスムーズにしなければ。

手術日には、私の体はまた付き合ってしまうだろうから、

私自身の体力も回復しなければ。



2004/2/20

この頃は、当然、料理などする気もなく、体力もなく、

ほとんどコンビニのおにぎりを食べていた。しかも、お赤飯。


コップを洗うのも面倒なので、ペットボトルにお茶を入れて飲む。


夜、寝ても、夜中の3時くらいに起きてしまう。

眠ければ、昼寝をすればいいだけのこと。

そう開き直って、起きていた。


すごく「お風呂に浸かりたい」という欲求があって、

一日に3回も4回も入っていた。



27日。

この日、唐突に、強烈に「バカラのキャンドルホルダーが欲しい」と思う。

夫のS氏と電話で話して、「今夜買いに行こう」ということになった。



仕事から帰ってきた夫のS氏の元気がない。

聞いてみると、「(義母が精神科のある)クリニックに通院することになった」と。

夫も一緒に病院に行った、20日の時点では、もう少し様子見ということで、

クリニックに紹介されることはなかったから、余計ショックだったらしい。


私は逆によかったと思った。

専門の先生に診てもらった方が、詳しいこともわかるし、

薬だって違うのだろうし、その方が治りがはやいと思うと言うと、

少し安心したようだった。私がショックを受けると思っていたらしい。


私は、もうここまできたら、何が起きても動揺しないだろうという自信があった。

だって、起きてしまうことには、抗ったって、仕方がない。

それなら、全てを受け入れるしか他はない。



夫の残業が長引き、既に、バカラのショップに行ける時間ではなくなっていた。

しかし、どうしても、バカラのクリスタルの輝きを求めている。

その時、思い出した。

恵比寿ガーデンプレイスにバカラのシャンデリアがあるはずだっ!!

2000年からは、クリスマス時期には毎年、そのシャンデリアが飾られていた。



夫は、ショックだったのもそうだが、疲れてもいただろう。

電車の中で、「少し眠った方がいいよ」と、私の左手で夫の右手を握っていた。

ただ握っているだけだと、私までつられて眠くなる。

私は、何故か、夫の手を、力を込めて握り出した。

力を入れていくにつれ、夫の体から力が抜けていく。

座席からずり落ちそうなほど、体のバランスが崩れていた。

駅に着くと、「すっきりした」と少し元気になったようだった。

どうやら、私の手を握る強さで、夫の眠りの深さをコントロールできるらしい。

(以後、何回かこういうことがあった)



あの巨大なシャンデリア。どちらを正面ととるのだろう?

至近距離で、下から見上げる正面には、小さなルビーが一石だけ飾られている。

このルビーに気付かない人が多い。

私は2000年にはじめて見たとき、「あの赤いものは?」と気になり、

説明を読んだら、ルビーとある。この時、一緒にいた夫のS氏に教えている。


2001年には、翌年に結婚を控えているM嬢と共に見た。

2002年には、年明けに出産を控えているN嬢と共に。

この2人にも、ルビーの存在を教えている。


夫のS氏は、まんまとこのルビーを忘れていたらしく、その話をしていたら、

後ろにいたカップルが「あっ、本当だ」と言っていました(笑)


階段を上がり、シャンデリアと同じ高さの位置から見る正面は、

少し離れていることもあって、全く印象が違う。

全体が見える。しかし、反対側にあるあのルビーは見えない。


物事の見え方や捉え方というものを象徴しているような気がした。

忘れてしまいがちだが、物事は全て、表裏一体



夫のS氏が「来てよかった・・・」と言った。

私も、夫も、バカラのクリスタルに教えられ、そして、救われた夜だった。



この後、食事をするのだが、

ほうれん草の胡麻和えの話をしていて、昔よく、すり鉢ですったという話や、

小さいすり鉢は100円ショップで売っているなどと話していたら、

定食のおかずとして、まんまと、これらが出てきた!!

れんこんとほうれん草の胡麻和え。

胡麻入りのミニすり鉢。(これは違うたれに入れるためのもの)


れんこんを見て、「父の手術は成功するな」と思った。



2004/3/18

翌、28日。

義母が「お寺(お墓)に行きたい」と言っていたので、皆で行くことになっていた。


私はまだ体調が思わしくなく、

今回は「滞りなくすませることが必要だ」という思いがあって、

ゆっくり支度をして、持っていくものを何度も点検した。

車の中で、お赤飯やら、焼きそばやら、黒あめやら、食べたいだけ食べていた。

いつもより、かなり道が空いている。すんなりお寺につく。


お墓掃除をはじめた私達。

いつもは、風が強くて、とてつもなく寒いのに、風が全く無い

今まで、この場所に来て、風が吹いていなかった時など、一度も無かったのに。


掃除の途中で義父が来る。結局、義母は来なかったとのこと。

住職の奥方が呼んでいるから、顔を出していくようにと言われた。

私は自分自身の元気もなかったし、翌日は父の手術だし、

気乗りはしなかったのだが、一応、挨拶に行くことにした。


掃除も終わり、お線香をあげて、手をあわせていると、後ろから、すごく強い西日

背中がジリジリと熱くてたまらない。

「お義祖父さんが、パワーを与えてくれているのだな」と思った。

それにしても、すごい熱さだった。


挨拶に顔を出すと、住職の奥方は風邪をひいてらした。

マスクまでつけて結構苦しそうだったから、すぐにおいとまを・・・と

思っていたのが、結局、40分くらい話をしていた。

多分、義父から、私の父が手術をすると聞いて、心配してくださっていたのだ。


何故か、主に、食べ物の話をしていた。とりわけ卵の話。

昔は、病人食であった、卵。 かなりの栄養価であるということですね。

なるほど、私は普段あまり食べないはずである。

それを、義母は2〜3年前くらいに、一日に2つも目玉焼きを食べていたとのこと。

夫がそう言った瞬間、「えぇ〜っっ!!」と、ものすごく驚いた。

前から、高血圧、高脂血の薬を飲んでいる義母。

そんな人が、こんな食生活じゃ薬飲んでる意味ないじゃない(汗


その後も、色々食の話は続いたのだが、

食べ物の【食べ方】というのも、精神状態と非常に関係があるように思った。



帰り道、中華そば屋に入る。

義祖母はラーメンが好きなので、年越しそば用に、お土産用の中華そばを買う。


夕方、新宿へ向かった。バカラのキャンドルホルダーを買うため。

疲労はものすごかったが、街に出て、買い物をしたせいか、少し気分が晴れる。

この日もホテルに泊まった。



明日の手術は家族総出で付き添うようだった。

弟が電話で「姉貴は来ないのか?」と聞いてきた。

やはり、お医者様に、死の可能性についても言われていたのだと思う。

私は、この騒動がはじまって以来、一度も父に会っていなかった。

私の中では、「父がもし死を迎えたとしても、仕方がない」と思っていた。

「元気な父でなければ、会う必要は無い」とまで思っていた。


かなり体重が落ちていたし、疲れた顔を見せて心配させたくないと思った。

それと、あの時のように、病室で横たわる父を見たくなかったのだろう。



忘れもしない、高校3年の始業式の翌日の土曜日。

この頃、父と継母の喧嘩が絶えず、この日も、朝から派手な言い合いが。

「またやってるな・・・」と思いながらも、私は、久しぶりに母に会いに出かけた。

夕方、家に帰って来ると、祖父が「そこに座れ」と言う。何かと思っていると。


父が薬を大量に飲んだ


もう既に病院には運び込まれていた。 継母の姿は無かった。

とりあえず、私と祖父で必要なものを持って病院に行くことにした。


集中治療室。

私と祖父は、白衣を着、マスクと帽子をつけて、病室に入った。

ベッドに手足を繋がれている父。暴れるから仕方がないのだそうだ。

胃を洗浄し、意識はある。しかし、まだ朦朧としているようだった。

祖父が「りんが来たぞ」と言っても、わからないようだった。

私も父に話かけたが、反応は無く、最後にたった一言。


「看護婦さん、おしっこ」


どうやら、全身、白づくめの私を看護婦と勘違いしたらしい。



明日は勝負の日。

私の体力は持つのだろうか? と少し不安になりつつも、すぐに眠りについた。

この頃、私は亡き祖父に言われていたのだ。

「父を死なすな」と。



2004/3/20

翌、29日。

朝7時過ぎ、夫のS氏に起こされる。この日は、今までで、一番最悪な朝だった。

とんでもない寝汗。とんでもない疲労感。

寝ている内に、かなりのエネルギーを消耗していたらしい。

自分では起き上がれず、腕をひっぱって起こしてもらう。


夫は仕事のために先にホテルを出る。

昨日、買っておいた、おにぎりをインスタントの味噌汁で流し込む。

もう、唾液がほとんど分泌されていない状態。普通に飲み込むことすら困難。


少しでも体の疲れをとるために、広い浴槽に体を沈める。

やはり、ホテルに泊まって正解だった。

40〜50分間、そのままボーっと入っていた。

その後、体と髪を洗って、再び浴槽に。

ジャグジーがついていたのを思い出して、スイッチを押す。

泡に打たれて、体はふわふわと浮いているようだった。

止まったのを合図に、やっとお風呂から出た。少し体が楽になる。

時計を見ると、丁度9時。 そろそろ父の点滴がはじまる頃。


髪を乾かし、部屋を片付け、ゆっくり帰る用意をする。

家に着き、時計を見ると、丁度10時。 手術がはじまる時間。



母と友人にバカラのグラスをプレゼントしたことがあって、

「手術日には、グラスの8分目まで水を入れて、陽のあたるところに置いておいて」

と頼んでおいた。

家にあるバカラを総動員して(笑)水を入れ、ダイニングテーブルの上に並べた。

水が入ったグラスに陽があたる様は、美しく、力強く感じられた。



数日前から引き続き、部屋を片付けて、掃除をしなければならない。

まだ、ふらふらしながらも、体力をつける為、買ってきたカルビ焼き弁当を食べる。

片付けの最中も、お赤飯にかじりついていた。とにかくお腹がすいてたまらない。

お昼頃、夫のS氏が一旦、家に戻ってくる。

今年の最終日だったため、仕事も忙しく、家のこともあって、イライラしていた。

私も、本来ならもっと動けるはずなのだが、とにかく体力が無い。

しかも、腕や首をグルグル回したり、深呼吸したりと、体が勝手に動いてしまう。

なので、何をするにも、いつもの倍くらい時間がかかってしまい、

2人のイライラが募って、つい、喧嘩腰になってしまう。

夫に頼んでいた部分が済んだ後、夫は仕事に戻っていった。


掃除も済み、私は最後の仕上げとして、ローズヒップティーを1袋全部煮出した。

まるで、ドス黒い血のようだった。

それを、シンク、洗面台、お風呂、トイレの4箇所に流した。

父の血の流れもよくなるであろう。

全てが終わって、時計を見ると、丁度3時

疲れて、眠くてたまらなかったので、寝ることにした。



後で父に聞いてみると、手術終了は3時だったそう。

心臓にある4本の太い血管中、3本には一箇所づつ、1本は2箇所の固まりが。

その、どこか1つでも完全に塞がってしまったら、あなたは死にますよ。

と、散々、お医者様に言われていたのだそうだ。



この日は、ずっと父の体のリズムに沿って、私の体は動いていたようだ。

点滴中は眠くなり、手術中はしんどくなった。

それでも、とにかく、家の【気】をスムーズに流すことが必要だと思っていた。



夜。夫のS氏の上司が退職するとのことで、送別会があった。

私は何故か彼に気に入られていて、

飲み会の度に誘われていたのだが、他の方を知らないし、ずっと断っていた。

しかし、今回は、送別会ということで、出席することに。


「体、柔らかいね。ヨガでもやってるの?」という言葉で気付かされた。

今日の疲れをとるかのように、また、体が勝手に動いていた。

飲んで、食べて、ストレッチして(笑)

初対面の人達に囲まれながらも、私は、自分のペースで楽しんでいた。

手術が無事終わった安心感と酔いで、疲労感さえも心地よいものになっていた。







2004/3/4

【目は心の窓】といいますね。こちらも、すごく感じたこと。


自分自身の目の色が変わったりする体験をしたのもそうですが、

やはり、義母の目ですね。

あの時は精一杯だったけど、今冷静に思い返すと、とてつもなく恐い。

だんだん戻ってきた義母の目を見ていて、安心すると共に、

最初の頃の目の色を思い出す。


ドラッグなどで、「いっちゃってる」などと表現されますが、

薬とか無しで、精神状態だけで、ああいう状態になるわけですからね。


瞳孔が開きっぱなしというか。で、焦点が定まらないような。

目だけで、顔つきが変わるんですね。

それこそ、まさに、般若の顔なんですよ。

そして、何かにとりつかれたようにブツブツ言い続けていた。

自分の頭の中の不安や妄想を、さも、現実にあったことのように話すから、

いきなり聞かされた人は、驚くのも当然。




昨日、久しぶりに電話してみたら、義母は風邪をひいているとのこと。

でも、声も明るく、調子もいいらしい。

最初の頃の状態を自分で把握できるようになっているほど、冷静だし、

「健康には自信があったんだけど、まったくとんでもない病気になっちゃったよ」

なんて、笑いながら話ができるほど、リラックスしている。


やめると言っていたお店も、諸々の条件が揃えば、再開になるかもしれない。

義父も、できることなら続けたそうだったし。

「もっと調子がよくなれば、少しは手伝えるし」と言っていた。

無理のない程度に続けられるのなら、これほどいいことはない。


なんだかんだと20分ほど話して、義母の薬の時間の前に切った。



あぁ・・・、平和な午後である。







2004/3/8

我が母がT家(私の実家)から出てから、もう15年になる。

私の人生の半分は、彼女と生活していない年数となってしまった。



昨年末。ただでさえ、あれやこれやと大変だったはずなのに、

私は彼女を本当の意味で、T家から解放してあげるべく、色々話をしていた。


と言うのも。

例えば、親戚が結婚した時、弟夫婦に「お祝いは贈ったの?」と言ってみたり、

今回の父の件でも、パニックになって、「あれこれ」言ってたんですね。

それによって、微妙に義妹との関係が気まずくなってしまっていて。


「心配する気持ちはわかるけど、もうT家の人ではないのだから、傍観してて」

と、まず、最初にはっきり伝えました。

そして、母も少し落ち着いた頃、

母が昔から気にしていた事柄を、一つ一つ説明していきました。


私は、それらのことを直接、祖父や父に聞いたわけではない。

しかし、今回、色々見えてきて、色んな話を総合すると、

「その裏にはこういう気持ちがあっての言葉だったんだよ」と、口をついて出てくる。

何故か、母も「そういうことだったんだ〜」と納得するんですね(笑)

そして、しみじみと、「あなたにはわかるのね・・・」と。

「そうだね。私はT家で生まれ育った女だからね」と。


ここが私と母の大きな違い。

そして、今は、私もT家を出た身。嫁の立場というものもわかる。



12月26日。ギリギリの状態で、私は母にこういうメールを出している。


父が、私を一番可愛がったのは、

祖父が「T家の女は死ぬ」と昔から言ってたのを知っていたから。

やっと授かった子供なのに、そんな不吉なことを母には言えない。

だから、父は自分が責任を持って、「この娘を死なせない」と誓ったの。

弟(長男)よりも、死ぬ可能性の高い私を愛そうと。 

それを母は、「【りん】ばっかり・・・」と嫉妬した。

確かに、嫉妬するくらいの溺愛ぶりだったのでしょう。 

でも、何かあると、私は父から「【りん】だからわかってくれるだろう」

と言われ(想われ)て無理をさせられ(違う人を優先され)、

母からは「父の方が好きなんだ」と嫉妬され、(父の気持ちがわかってしまう為)

結局、私の好きな両親から、一番には想ってもらえなかった。


私が人に求めなくなったのは、そういう理由。

求めたって、一番信頼する、愛する人からは、何も返してもらえない。  

我慢させられるだけ。(ついでに言えば夫のS氏との関係もそうだった)

私は強くなんか無い。今、私は子供みたいにビクビクして過ごしてる。


すっかり義母と同じ状態に陥ってしまったわけだけど、違う点は。

自分の状態さえも、全てが見えていて、

「私は私が生き抜くために、私自身を最優先させる」と誓っていること。

今までずっと、我慢してきた。自分を殺して、人に合わせて生きてきた。

もう、そんなことはしない。

この決意は、薬の効果より高いはず。私には、精神安定剤も、睡眠薬も必要無い。

ただ、体と心の欲求に素直に従うまで。




昔、私と母は仲が良かった。

しかし、ある日を境に、昔のように母のことを好きではいられなくなってしまった。

その理由も伝えました。私には相当ショックなことだったのだと。


それからは、私達の間のわだかまりも消え、意思の疎通もスムーズに。

今年の誕生日なんて「私の自慢の娘だもの」とメールにありました。

「お願いだから、よそでそういうこと言わないでくれ」と頼んでおきましたが(汗







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